2025/06/26 19:25
松前廣年(1764年6月25日~1826年7月26日)のお墓は、北海道松前郡松前町にある「法源寺」にあります。法源寺は曹洞宗の寺院で、山号は「松前山」。室町時代(1469年頃)に開山され、松前藩(当時は蠣崎氏)の初期の菩提寺として重要な役割を果たしました。松前藩初代藩主・松前慶広の弟である蠣崎随良が住職を務めたことでも知られ、松前氏と深い関係があります。寺の山門は江戸時代中期(1661~1750年)の建築で、北海道指定の有形文化財に指定されています。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」において、TBSバラエティ「水曜日のダウンタウン」で話題沸騰のお笑い芸人”ひょうろく”さん演じる松前廣年(まつまえ ひろとし、別名:蠣崎波響[かきざき はきょう])は、江戸時代後期の松前藩家老であり、画家、詩人、文化人として知られる多才な人物です。松前藩の重臣として行政に携わりながら、絵画や和歌、漢詩に優れ、特にアイヌ民族の首長を描いた「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」で歴史に名を残しました。彼の生涯は、武士としての職務と芸術家としての創造性が融合したもので、蝦夷地(北海道)の文化史において重要な存在です。以下に、生涯と功績を簡潔にまとめます。
●松前廣年(蠣崎波響)の生涯
1. 幼少期と出自
1764年(宝暦14年)北海道松前郡松前町に、松前藩12代藩主・松前資広の五男に生まれる。幼少の頃から画を好み、8歳で馬を描いて人々を驚かせたという逸話が残っています。廣年(波響)が生まれた翌年に父が亡くなり、「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では”えなりかずき”さん演じる兄の道広が藩主を継ぎ、廣年(波響)は家禄500石の蠣崎家の養子となりました。
2. 江戸・京都での研鑽
20代で江戸に遊学し、円山応挙を始め著名な画家と交流。京都でも学び、四条派の画風を吸収。絵画だけでなく、和歌や漢詩にも精通し、文化人としての基盤を築きました。
3.「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」の制作(1789年)
寛政元年、アイヌの12人の首長を描いた肖像画集「夷酋列像」を制作し、幕府に献上。アイヌの衣装や文化を詳細に記録したこの作品は、後に民族誌的資料として高く評価される。
4.家老としての活躍
松前藩の家老として、アイヌとの交易(場所請負制)や蝦夷地の統治に携わる。1800年代初頭、幕府の蝦夷地直轄化やロシアの南下という複雑な情勢の中、藩の外交・行政を支えた。
<場所請負制>
松前藩の経済基盤は、本州の多くの藩のように米の年貢ではなく、蝦夷地の産物(海産物や毛皮など)をアイヌの人々から入手し、それを本州の商人に売却することで成り立っていました。
当初、松前藩は「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」という制度を採用していました。これは、藩主や家臣がアイヌとの交易を行う場所(「商場」または「場所」と呼ばれた)を知行地として与えられ、そこで直接交易を行うというものです。
しかし、武士である家臣たちは商売の専門家ではありませんでした。そこで、松前藩は徐々にこの交易権を専門の商人(「場所請負人」)に請け負わせ、代わりに「運上金(税金)」を納めさせるという制度に移行しました。これが「場所請負制」です。
5.晩年と死(1826年)
文政9年に松前で没、享年63。江戸で病を得て、故郷の松前に戻り、その地で亡くなったと伝えられています。
●松前廣年(蠣崎波響)の功績
1.「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」の歴史的価値
アイヌの首長たちを描いた「夷酋列像」は、アイヌ民族の容姿、衣装、装飾を精密に描写した作品で、江戸時代のアイヌ文化を伝える貴重な資料。現在、東京国立博物館や海外の美術館に所蔵され、2013年にユネスコの「世界の記憶」に登録された。
幕府の蝦夷地政策の一環で制作されたが、波響の観察力と芸術性がアイヌへの敬意を込めた作品に仕上げた。
2.文化人としての貢献
円山四条派の影響を受けた風景画や人物画、和歌、漢詩で知られ、松前藩の文化水準を高めた。江戸や京都の文化人と交流し、地方にいながら中央の芸術動向を取り入れた。
蝦夷地の自然やアイヌ文化を題材にした詩や画は、当時の異文化交流を記録する貴重な遺産。
3.藩政での役割
家老として、アイヌとの交易や蝦夷地の管理を担当。文化年間(1804~1818年)の幕府による蝦夷地直轄化や、ロシアとの接触問題(ゴローニン事件など)に直面し、藩の存続と安定に尽力。
藩の財政難を背景に、交易政策の調整や幕府との折衝に手腕を発揮した。
4.その他
<多才な文化人>
武士としての責任感と芸術家としての繊細さを両立。アイヌ文化への深い理解と敬意を持ち、対等な視点で記録を残した。
<地方と中央の橋渡し>
松前という辺境で生まれながら、江戸や京都の文化を吸収し、地方文化の可能性を示した。
<歴史的意義>
アイヌ民族の姿を後世に伝えた功績は、現代のアイヌ文化研究や民族共生の議論にも影響を与えている。
松前廣年(蠣崎波響)は、松前藩家老として藩政を支え、画家・詩人としてアイヌ文化を芸術に昇華させた稀有な人物です。「夷酋列像」は彼の代表作であり、アイヌ民族の歴史を世界に伝える遺産となりました。法源寺の墓は、彼の故郷・松前での足跡を今に残しています。
松前廣年(蠣崎波響)と蔦屋重三郎の関係については、直接的な交流や具体的なエピソードを示す明確な歴史的記録は非常に限られています。両者は江戸時代の文化人で、波響は松前藩家老かつ画家、蔦屋は江戸を代表する版元(出版社)として活躍しましたが、地理的・社会的背景の違いから、深い関わりがあったとは言い難い状況です。それでも、2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、波響(演:ひょうろく)が蔦屋(演:横浜流星)と関わる描写が創作として登場しており、これを基に推測や間接的な接点を考えることができます。波響は江戸に遊学し、建部綾足や宋紫石らと交流していた時期(1780年代)があり、蔦屋が版元として隆盛を極めた時期(1770~1790年代)と重なります。そして、波響が江戸の文化人ネットワークに触れた際、蔦屋の出版物や吉原の文化に間接的に関わった可能性は多少なりともあるかもしれません。特に、波響の「夷酋列像」は幕府に献上された作品で、蔦屋が扱うような商業出版とは異なりますが、江戸の美術市場での話題性は共有されたかもしれません。
松前廣年(蠣崎波響)のお墓は、北海道松前郡松前町にある「法源寺」にあります(北海道松前郡松前町松城341)。ここでは、法源寺への具体的な行き方を、最寄り駅からのアクセスを中心に詳しくご案内します。
1. 電車とバスでのアクセス
ステップ1) JR函館本線 / 道南いさりび鉄道で「木古内駅」へ
ステップ2)「木古内駅」から函館バスで「松城バス停」へ
−木古内駅前から函館バス「松前線 松前行き」に乗車。
−所要時間 約1時間
−運賃 約1,200円
−便数 1日数本
−「松城バス停」で下車。松城バス停から国道228号線沿いを南西方向(松前城方面)に約500m進む。松前城の入口を過ぎ、寺町エリアに入ると左手に法源寺の山門が見えます(徒歩約10分)。
2. 車でのアクセス
松前町は函館や木古内から車でアクセスしやすい場所にあります。法源寺には小規模な駐車スペースがあります。
<函館から>
−函館市内から国道228号線(海岸沿いの道)を南下。
−距離 約90km、
−所要時間 約2時間。
−福島町や知内町を通過し、松前町に入ったら松前城を目指す。法源寺は松前城のすぐ南西、寺町エリアに位置。
<木古内から>
−木古内町から国道228号線で松前町へ。
−距離 約40km、
−所要時間 約50分
−松城地区に入り、松前城の駐車場を目印に進むと、法源寺の入口が見える。
【駐車場】
−法源寺の境内または近隣に数台分の駐車スペースあり(無料、要確認)。
−混雑時は松前城の観光駐車場(無料、約200m離れた場所)を利用し、徒歩で移動。
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